GHQ検閲逃れた1949年の手記 14歳、焦土で惨状を見た。

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広島への原爆投下から四年後の一九四九年に書かれた被爆者の手記が三月、六十九年ぶりに見つかり、原爆の語り部らが冊子にまとめた。当時は連合国軍総司令部(GHQ)が原爆に関する報道を規制しており、この時期に書かれた克明な記録の公表は少ないという。筆者の西村利信さん(87)=千葉県船橋市=は「あの惨状が忘れられつつある今、若い人たちに読んでほしい」と願う。

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この記録は、千葉高校文学クラブ誌「道程」5号、6号に書かれた。それを69年ぶりに、見つかり、小冊子「原爆体験記」としてまとめた。

西村さんの手記をまとめた冊子 「原爆体験記」は約五百冊作られ、広島観音高 校同窓会や広島平和記念資 料館などに寄贈された。俳人の黒田杏子さん主宰の「藍生俳句会」も月刊誌八月号別冊として発行。
編集に携わった俳優で語り部活動をしている岡崎弥保さんのホームページ「言の葉」
http://ohimikazako.wixsite.com/kotonoha)でも公開され、ダウン- ロードできる。


(ダウンロード方法)
1. http://ohimikazako.wixsite.com/kotonoha/blank-17 をクリック
2. 「どなたでも全文を閲覧・印刷できます->こちら  「こちら」をクリックする
3. 以下の手順で、体験記を自分のPC上にダウンロードする。


それでは、その小冊子の「はじめに」と「後記」を記載します。
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は じ め に

二〇一八年三月上旬 、 私たちの地元グループ「小さな風の会」の央康子さんから、「小野さんのお父様の教え子の西村利信さんが書かれた原爆体験手記がみつかった」という連絡が入りました。

私の父・山本信雄は旧制広島第二中学校(二中)の英語教師でしたが、一九四五年八月六日、一年生の生徒を引率して、爆心地近くで勤労奉仕中に被爆、生徒三二一人と教師四人全員が亡くなりました。父たちと一緒に被爆 した一年生・西村正照さんの兄で、同じ二中の二年生だった利信さんは、ご自身も被爆してやけどを負いながら、 六日の夕方、一年生が作業をしていた現地に弟の正照さんを探しに行き、瀕死の正照さんを発見して自宅に連れ 帰られましたが、介抱の甲斐なく、正照さんは自宅でお亡くなりになりました。


利信さんが書かれた手記は、被爆四年後に在学していた千葉高校文学クラブの機関誌『道程』に掲載されたもの。 軍人だったお父様も原爆で亡くされた利信さんは、被爆二年後にお母様の実家がある千葉県に移住し、千葉中学 を経て千葉高校に進学なさいました。 そして、文学クラブに所属し、高校二年生のとき、文学クラブの顧問の教師に勧められて手記を書かれたそうです。

その手記をぜひ拝見したいと思い、央康子さん、そして原爆作品を語る活動をしている俳優の岡崎弥保さんと一 緒にB5版の機関誌はガリ版印刷で、ふれればバラバラになるほど劣化し、茶色に変色していましたが、被爆当 日のことや、その後の十日あまりのことが、 十六ぺージにわたって克明に書かれています。

ことに正照さんを探して歩いた当日の爆心地の惨状は目を覆うばかり。私も数多くの被爆手記を読んできまし が、ここまで詳細に書かれたものは少ないのではないかと思います。

さらに特筆すべきは、この手記が原爆投下四年後の一九四九年に書かれたものであることです。一九四五年の敗 戦から一九五二年のサンフランシスコ講話条約発効まで、日本は連合国の占領下にあったため、GHQ(連合国 最高司令官総司令部)の厳しい統制のもと、原爆に関する報道はいっさい禁じられていました。

新聞や雑誌、 単行本などすべてが検閲され、没収・廃棄されていたのです。そうした中で西村利信さんの手記が生き残ること ができたのは、高校の文芸誌という私的で目立たない存在だったためと思われます。まさに奇跡です。

実は、この手記の発見には、もうひとつ奇跡のような出来事がありました。

私の母・山本信子は原爆投下二年後に、世界に原爆の悲惨さを伝えたいと英文で被爆手記を書き、アメリカの 『T IME』誌に送りましたが、 GHQの検閲にひっかかって没収され、母はGHQに呼び出されて厳しく叱責されました。その後、手記のコピーは母の文箱の中に長く眠っていました。

一九七八年に母が亡くなったあと、その遺品を整理していてその手記を発見した私は、英文の手記を和訳し、『炎のメモワール』と題して小冊子にまと めました。その母の手記の一部を央康子さんが朗読会で朗読してくださったのですが、そのことを央さんのフェ イスブックで知った西村さんの息子さんの妻・西村桂子さんから、「実は義父の書いた手記がありまして」とい う連絡が入り、西村利信さんの手記発見に繋がったのです。

ふたつの奇跡によって発見されたこの貴重な手記を、ぜひ世に出したい、多くの方に読んでいただきたい。西村利信さんにそうお願いしました。最初は「今さら世に出す気はありません」とおっしゃっていた西村さんですが、 私たちが帰ったあと、徹夜でご自身の手記を手直しされ、翌朝、「公表していただいてかまいません」という嬉
しいご連絡をいただきました。

西村さんは八十六歳、私は七十九歳。 被爆者が高齢になり、原爆の悲惨さを語り継ぐ者が減少の一途をたどっ ている今、西村利信さんの手記をこうして世に出すことができることを心から嬉しく思っています。

二〇一八年五月 小野 英子

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後記

◆本稿の原本は、旧仮名遣い、かつ手書きで記されていましたが、このたび、ご本人の許可を得て, 新仮名
遣いに表記を改めてデータ化し、小冊子にまとめました。

◆ 原本である「道程」(千葉高等学校文学クラブ)は、ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会に寄贈させ
ていただきました。

小冊子にまとめるにあたって、多大なるご協力を賜りました。まことにありがとうございました。



協 力

西村桂子・央 康子・ 山下 徹・ 中野みさき・ 内山昭雄
習志野小さな風の会・広島平和資料記念館
ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会

二〇一八年五月発行/発行者
小野 英子・ 岡崎 弥保

本冊子は複製可。こちらから無料で閲覧・印刷ができます。 http://ohimikazako.wixsite.com/kotonoha/blank-17 (HP「言の葉」原爆手記)

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≪原本に関するお問い合わせ≫ ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会 http://kiokuisan.com/
≪本冊子に関するお問い合わせ≫ http://ohimikazako.wixsite.com/kotonoha/blank-1 (HP「言の葉」問い合わせフォーム)

ひとりでも多くの方に読んでいただければ幸いです.

この小冊子にこのように、記載されています。そこで、このblogでも掲載宣伝するものです。

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