横浜 米軍機墜落事故から40年(中) 悲劇の大本日米安保 40年 真相解明の生き証人として

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40年前の米軍機墜落事件当時、日本共産党県議として被害者救援にあたった斎藤淑子さん(77)=横浜市緑区在住=は「私の人生を変えた事件」と振り返ります。被害者の林(土志田)和枝さん=当時 (26)=を「やけどの痛みに耐えながら、米軍とたたかい続けると決意するほど、精神的にとでも強い人だった」と人柄をしのびます。

和枝さんは、皮膚の8割を焼かれながらも奇跡的に一命をとりとめました。しかし、大やけどを負った和枝さんの幼い子どもたち、裕一郎ちゃん=同(3)=と康弘ちゃん=同(1)=は相次いで亡 くなりました。

手握り励ました

事件から2カ月余。和枝さんの体を殺菌する湯薬治療が始まりました。激痛で1階の和枝さんの叫び声は5階まで響きました。そんな和枝さんを支えたの は、「子どもたちも治 療をがんばっている」という思いでした。

そのころ、斎藤さん は、和枝さんを訪ねま した。

愛児の死を知らない和枝さんに「どう声をかけたら良いのか…」と遼巡(しゅんじゅ ん)した斎藤さん。病室に入り、和枝さんの 澄んだ目と視線が合い ました。手を握り「母親同士、がんばろうね」と声をかけました。後遺症で声がうまく出せない和枝さんの目に涙が浮かびました。

事件から約1年後、わが子の死を知らされ、絶望に涙しながらも「なにがなんでも生き抜き、事故の生き証人として真相解明に役 立ちたい」と決意を日記に記しました。

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思いは次代へと

大阪の高校生が、仮退院中の和枝さんにインタビューを申し込み、斎藤さんも同席しました。「戦争と平和」というテーマでした。

喉を切開していた和枝さんは、ハンカチを喉に押し当てながら懸命に応じました。戦争について間われ、「広島で原爆にあった人は私と同じように苦しかったでしょう。戦争には反対です」 。高校生から「生きるとは?」 との問いに「たたかいです」と答えました。

しかし事件から約4年後、和枝さんは31歳 で亡くなりました。「元気になって社会に出よう」と斎藤さんと語り合っていただけ に、無念の死でした。

斎藤さんは「悲劇の大本に日米安保条約があると多くの人に気付いてほしい。事件はいまも続いている。同時に、後世に時代背景や真実を知らせたい」と語ります。

この思いは次世代に受け継がれています。星治希さん(26)= 同市在住=はおととし、事件を知り、神奈川県内の米軍基地や米兵による犯罪などの実態を学んできました。 悲劇を二度と繰り返さないために、事件を多くの人に伝えたいと考えています。「こんな悲惨な事件があったことにおどろき、胸が痛みました。平和と基地とは相いれない」

( つづく)

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